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Architecte
「悲劇喜劇」の1979年12月号(No.350)p.71-75

パリ五区の芝居小屋(上)         ―――もう存在しない芝居小屋巡り―――
                 ニコラ・バタイユ         (住野天平訳)                      
 第二次大戦後二〇年程、いわゆるヌーボー・テアトルが左岸 を中心におこった頃、ここで紹介するパリ第五区には六つの芝 居小屋があった。だが、そのうちのあるものは経済的理由で、 あるものは、真相がよくわからないまま映画館に改装され、ま た「風紀上」の問題で契約の更新を拒まれなどして閉鎖を余儀 なくされ、現在では、ユシェット座だけが活動を続けているに すぎない。
 私はこれから、ムフタール街から今はもう消え去った芝居小 屋を道順に沿って紹介しながら、ユシェット座まで散歩するこ とにする。そもそもヌーボー・テアトルの興隆の中心は、左 岸、特に第五区にあった。この意味で、この「もう存在しない 芝居小屋巡り」も演劇好きの人にとっては興味ある散歩となる だろう。


   ムフタール街
    ムフタール座とエペ・ドゥ・ボア座

 戦前にはムフタール街には劇場はひとつも存在しなかった。 しかし、第二次大戦が終わるとすぐ、ムフタール街七四番地 に、文化活動の中心として「青年の家」が設置され、その活動 の中からムフタール座が誕生した。そしてレーモン・ルローの 指導のもとに、タルデュー、イプセン、ペケットなどの前衛的 な現代演劇がここで、数多く上演された。
 さらに、レーモン・ルローは、女優のタニア・バラショバの 協力を受け、ムフタール座のすぐ近くの、ムフタール通りと、 エペ・ドゥ・ボア通りの角にある、パリ市の管理下の空地を借 り受け、もうひとつの芝居小屋エペードゥ・ボア座をつくっ た。このふたつの劇場を中心に、タニア・、ラショバは演劇講 座を開き、演劇教育の活動をも加え、劇場と学校の融合体―― 一種の実験演劇の場――演劇共同体――を創りあげたのだっ た。昼を過ぎると俳優の卵たちが勉強にここにやって来て、夜 になると、今度はプロの俳優たちが芝居を上演していた。それ だけでなく、若い役者達を本当に仕上げるため、彼らにプロを 手助けさせて、実際の芝居にどんどん出演させることまで行な ったのであった。私もタニア・バラショバに頼まれて、彼女が 舞台やラジオや映画の仕事で忙しい時に、演劇講座を担当した り、また実際の演出もよくやったものである。中には、後に東 京で上演した『十五の未来派の作品』などがあった。
 また、レーモン・ルローは、エペ・ドゥ・ボア座に、ジャン =マリー・パットなどの若い演出家を機会あるごとに招き、彼 らに最初のチャンスを与えるように努力した。現在、モンパル ナス劇場で活躍している「グループ・ツェ」などもこの中のひ とつである。
 このような、ムフタール街の演劇共同体によって生み出され た芝居には、他に、『レイディー・マクベス』、『オペラ・ズル フ』、リベモン・ドゥセーニュの『中国の皇帝』、ストリンドベ ルイの『夢』、チェーホフのもの、『星の王子様』などがある。  しかし、まず、エペ・ドッ・ボア座が取り毀され、人々の抗 議にも拘らず、土地はアパート建設のためにパリ市に没収さ れ、ついでムフタール座の方は老朽化が進んだため、この演劇 共同体も活動を続けることが出来なくなってしまった。ムフタ ール街はパリの中心からやや離れてはいたけれども、それでも 人々は、ここに実験演劇を見に来ていたし、さらには、かつて 六つあったパリ第五区の劇場は、その時すでに、このムフター ル街のふたつとユシェット座だけになっていたからなおさらの こと、エペ・ドゥ・ボア座の閉鎖は、たいへん惜しまれた。つ いで、ムフタール座の方も、ほどなく閉鎖されてしまった。
 ムフタール座跡の隣りには、現在、トゥログロディットとい う名の小さなカフェ・テアトルが出来ている。そこでは、まだ いくつかの見世物が出されてはいる。しかし、ムフタール座や エペ・ドゥ・ボア座がかつて保持していた評判や名声はもうな い。カフェ・テアトルとは言っても、半分キャバレーのような もので、舞台もなく、客席の間でショーがほそぼそと上演され ているにすぎず、結局のところ、もう演劇と呼び得る代物では ない。
 このふたつの劇場による戦後のムフタールの演劇が現代演劇 に対して持つ重要性の他に、これらの劇場がムフタールを中心 とする地区の生活に与えた意味を私たちは忘れるべきではない だろう。
 周知の通り、ムフタール街は、屋台を含む数多くの商店と、 そこに蝟集する人々が織りなす、一種東洋的な市場として有名 であった。だが、これらの、野菜や果物、肉やチーズの店が発 散する雰囲気も言ってしまえば、単に観光的なものにすぎなか った。ところがムフタール街にふたつの劇場が出来ると、一般 の観光客の他に、演劇に興味を持ち、また、現代の芸術に無関 心ではいられないインテリや学生達も少しずつ集まるようにな ってきた。そして、彼らの溜り場として文学カフェやカフェ・ コンセールなども、少しずつ出来始め、そこでは、多くの歌手 達が新しい民衆的シャンソンや民謡を歌い、またシンガーソン グライターのようなたぐいの連中もたくさんやってきた。この ような場所のひとつに、例えば、デュビヤールの初めの頃の芝 居に出ていた、女優のアルフレット・レネルクが、ムフタール 街の北端のコントレスカルプ広場に開いたカフェがあった。
 しかし、ムフタール街に新しい芸術活動を求めて人々が盛ん にやってくるようになり、今までの商店が、レストランやカフ エにかわるにつれて、ムフタール街は、再度、別の意味であま りにも観光的になり、せっかく出来かけた生活の幅のようなも のを残念ながら失ってしまった。
 以上のような変化は五〇年代初めから、六〇年代の終わりに かけて徐々におこったものであり、現在ムフタール街は、妙ち きりんなギリシャ料理店、田舎風をとりつくろった、あるいは 擬民衆的としか言いようのないレストランなどで充満している だけで、よくモンマルトルに見られるような極めて観光的な地 区に変わり果ててしまった。すなわち、ムフタール街が戦後に なって持ち始めた色あい、本物の味は再び失なわれてしまった のである。
 単に外見的な景観の変化も激しく、昔の皮市場の跡にパリ第 四大学ができ、学生が近くに移り住んで来たりして、今ではた たサン・メダール広場のあたりに、かすかに昔のパリの街の面 影をうかがえるだけである。
   リごアス座
 ムフタール街を後にして、モンジュ通りとリンネ通りを横切 るようにして理学部の方へ足を向けると、理学部正面のジュス ィウー通りに現在建設中のアパートがある。これがまさにリュ テス座のあった所である。ヌーボー・テアトルのかつての熱気 を知る者にとって、理学部の近代的な大建築とその前にある建 設中のアパート程、パリの変貌と時代の流れを感じさせるもの はないだろう。
 もともとここには、地区のカトリック司祭の経営する教区学 校に付属した古い救済会館があった。それは学校の時々の祭礼 行事にのみ使用されるだけだったので、五十年代の終わり頃、 リュシー・ジェルマンという婦人が出資者としてこの会館を学 校から借り受け、劇場に改装することにした。こうして出来た のがリュテス座であった。
 リュテス座はその時から約十五年後に閉鎖されるまで、戦後 世代の劇作家のうちの最重要部分をほとんどすべててがけたの であった。その主なものをあげるだけでも、ロジェ・ブランの 演出によって、ジャン・ジュネの『黒人たち』、デュビヤール によって彼自身の『骨の家』、J・M・セローによってアラバ ールの『戦場のピクニック』などである。私は、ここではクロ ード・モーリアックの『会話』や、ワインガルテンの『乳母た ち』を演出した。
 文学―演劇の面で数多くの極めて重要な発見の場を提供した リュテス座も結局、補助金の不足が原因で閉鎖を余儀無くされ てしまったが、この閉鎖の過程は、他の多くの前衛芸術が出会 う困難を集中的に示しているようだ。「世間」というものと、 それ以上にはけっして出ようとしない行政府の冷淡さがそれで ある。教区学校を経営する司祭たちが、リュテス座との契約を 更新することを望まなかったのは、ひとつには劇場の経済的困 窮ということがあったことは確かだが、彼らの意図は別のとこ ろにもあった。カトリック教会に禁止という烙印を押されたよ うな「非道徳作家」ジャン・ジュネの作品が、そこで上演され るのを、彼ら司祭たちは望まなかった。また文化省は、ロでは リュテス座の劇場としての重要性を認めておきながら、実際に は、劇場の継続にとって助けとなるようなことを何ひとつしな かった。こうしてリュテス座も、大事な劇場でありながら経営 を続けられずに消滅してしまったのだった。今、リュテス座の 跡地には、裕福な学生向きの部屋をたくさん備えたアパート が、そんな事情も知らぬ気に建てられつつある。家の前がすぐ 大学なのだから、便利なことはこの上ないだろうが……。


   シヤンポリオン通り
    ノクタンビュル座とカルティエ・ラタン座

 超近代的な理学部から、今度はエコル通りをサン・ミッシェ ル大通りの方に向って進むと、ソルボンヌを始めとする古くか らの大学街にはいる。サン・ミッシェルよりひとつ手前の、シ ャンポリオンという名の薄暗く、狭い通りには、二軒の小さな 映画館、ノクタンビュル(左)とカルティエ・ラタン(右)が 並んでいる。これらの映画館こそ、かつてのノタンビュル座と カルティエ・ラタン座のなれの果てである。
 ノクタンビュル座の方は、パリ第五区で最も古い劇場のひと つであり、今世紀の初めからすでに、カフェ・コンセールのよ うなものとして活動していた。一九三〇年代になって、ピエル ・レリスやジャン・クロードが座長の時、ノクタンビュル座は 本式の芝居小屋に改修され、それから以後、一九五〇年代まで 数多くの重要な芝居がそこで上演された。例えば、ゲルドロー ド、アンリ・ピシェット、ドストエフスキー、ジャン・ジオ ノ、クラベル、イプセン、イオネスコ、ピランデルロ、アラ バール……と、思いつくままに挙げてもこのように出てくる。 イオネスコの最初の芝居『禿の女歌手』が出来あがったのもこ のノクタンビュル座であった。この劇場で上演される芝居は、 大部分が文学的作品であり、娯楽が目的のものはほとんどなか った。したがって観客の大部分が、演劇の好きな学生で占めら れていたのは、場所柄から言っても当然であった。
 ノクタンビ=ル座の隣のカルティエ・ラタン座でも、ミッシ ェル・ドゥ・レの演出によるギョーム・アノト『人殺しのエッ フェル塔』を始めとする数多くの作品が上演された。また、イ オネスコの『義務の犠牲者』が、J・モークレールの手によっ て作りあげられたのはここであり、二つの劇場はお互いによい ライバルのようであった。
 ところが、である。
 劇場を映画館に改装することは、一九四八年に成立した法律 によって禁止されていた。それにもかかわらず、このふたつの 芝居小屋は、いつのまにか相ついで映画館に変えられ、劇場の 持主もここを追い出されてしまったのである。改装を禁止する この法律があるにもかかわらず、どのようにして、また何を理 由に、こんなことが可能になったのかは今もってよくわからな い。しかし、ひとつだけ確かなことがある。それは、右岸の大 劇場の持主を中心として組織されている興行主組合が、この改 装による左岸の芝居小屋の消滅を陰に陽に支持したということ である。一般的に言えば右岸のいわゆるブールバール劇場は、 その最も小さいものでも五〇〇席くらいは持っており、そこで は、アシャールやアヌイなどの芝居が商業的に上演されてい た。これに対し、左岸のいわゆるヌーボー・テアトルの小劇場 は、その席数がだいたい一〇〇から二五〇くらい、最大で三〇 〇くらいでしかなかった。それにもかかわらず、右岸の興行主 たちは、左岸の劇場が自分たちに損害を与えていると思ってい たのだ。だから、彼らは、四八年の法律を無視し、左岸の劇場 の映画館への改装に目をつぶったのであった。 (以下次号)
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「悲劇喜劇」の1980年1月号(No.351)p.74-77

パリ五区の芝居小屋(下)        ―――もう存在しない芝居小屋巡り―――
                 ニコラ・バタイユ         (住野天平訳)
   フレデリック・ソートン通り
    ラプスィディオル座と
       カレイドスコープ座

 シャンポリオン通りから、=コル通りを渡り、クリュニーの 大修道院長館跡のわきを通って、サン・ジェルマン大通りに出 る。通りを理学部の方へ引返し、地下鉄のモーベール・ミュチ ュアリテの出口の辺まで戻ると、左側にフレデリック・ソート ン通りが始まる。ここに四年前まで、一軒の小劇場カレイドス コープ座と、一軒の小さなカフェ・テアトル、ラプスィディオ ル座があった。今では、ここを買い取った土建屋によって内部 は完全に改装され、ファサードは古い様式のままきれいに洗い 直されて、高級なアパルトマンに生まれ変ってしまっている。 小屋の持主たちは、当然追い出されてしまった。ラプスィディ オル座のあった道に面した部分は、一軒のブティックになり、 その隣の奥にあったカレイドスコープ座の方は、完全に取り払 われ、豪華な集合住宅の中庭になってしまい、往時を偲ぶもの は何ひとつ残っていない。
 カフェ・テアトル、ラプスィディオル座では、夕食の後、人 人はレーモン・クノー、モーパッサン、ボリス・ヴィアンなど の芝居を楽しむことが出来たし、カレイドスコープ座では、ピ ノックとマトのパントマイム、日本のパントマイムなどの他、 ダヴィッド・ゲルドン、タルデューなどの前衛劇を見ることが 出来た。このふたつの小屋も、ムフタール街のふたつの劇場 や、ノクタンビュル座などと同様に、いわゆるヌーボー・テア トルの中心のひとつであった。


   カレイドスコープ座の幽霊
 忘れられないエピソードとして、カレイドスコープ座の幽霊 の話がある。私はここで演じたことがないから確かめようもな いが、出演した多くの仲間達、例えば、ピノ。クとマトやここ の座長が私に話してくれたところによると、この小屋には男の 幽霊がひとりいて、客席の暗くなった部分の、いつもきまった 席にすわって、役者達が稽古しているのをじっと見ていたとい うのだ。それが何番の席であったか私はもう覚えていないが、 ともかくもその幽霊の席にすわり続けることのできた人は誰も いなかったと言われている。その席に割りあてられた客は、不 思議なことに例外なく、いくらも時間がたたないうちに必ず、 寒いからと言って、その席を離れて別の席に移りたがるという のだ。
 この経験なら私にもある。
 ある日、カレイドスコープ座に、仲間達が出るのを見に行っ たことがある。そしてそんなことがあるとは全く知らずに、例 の席にすわったらしい。そうしたら、そのうちに突然凍るよう な耐え難い寒さに襲われたのだった。その時は、どうせ扉のあ たりからの冷たい空気の流れ道にでもあたっているのだろうく らいにしか考えていなかったのだが、ともかくも寒くて、私は そこに坐り続けることが出来ず、別の席に移ってしまった。  芝居が終わってから、出演していた仲間達にこのことを話し たら、彼らは一斉に「あっ、じゃあ、おまえ、幽霊の席に坐っ たんだ」と教えてくれたのだった。
 カレイドスコープ座の座長は次のような話をしてくれた。  ある日の夜、座長が幼い息子といっしょに舞台装置の製作に 取り組んでいた。しかし、夜もふけて十一時も過ぎてしまった ので子供に言った。
「さあ、あしたも学校だからもう上って寝なさい」  男の子はすなおに父親の言うことを聞いて、自分のアパルト マンに帰った。家では母親が待っていた。 「パパは、まだ下でお仕事しているの?」 「うん、パパはずっと舞台道具を作っているよ」 「今までふたりだけで作っていたの?」 「うん、パパと僕とでね。もひとりの客席の後ろの方の男の人 は何もしないで、僕達の仕事を見てるだけだったよ」  子供が寝入ってから父親が帰ってきた。 「誰かに手伝っていただいていたの?」 「いや、ひとりでやっていたんだよ」 「でも、あの子は、客席に男の人がいたって言ってたわよ」 「えっ、じゃ、あいつ例の幽霊を見たんだ」
 ピノックとマトの話はこうである。  ある時、ふたりが、ある芝居のための稽古をしていた。マト が客席にいてピノックの練習を見ていた時、突然、男がひとり 舞台を横切り、ピノックの後ろを通って楽屋の方へはいってい ったので、マトは思わず、「何か御用でしょうか」と声をかけ た。しかしピノックは客席の方を向いて練習していたからそん な男は見えなかった。 「でも、絶対なんだから。この目で男の人が通るのを見たんだ から」  「私には、誰も見えなかったわ。でもさっき、ほんのちょっと の間だけだったけど、ひどい寒気がしたわ」  そこで、ふたりは楽屋に行ってその男を探したけれども誰も いなかった。その楽屋は、ピノツクとマトのふたりがいた舞台 の側にだけドアがあり、それ以外には人の出入は出来ないはず だというのに。
この芝居小屋を毀してアパートに建て替えた土建業者や、新し くここに移り住んで来た住民は、劇団員といっしょはこの芝居 好きの幽霊もちゃんと追いだしただろうか。それとも、幽霊だ けは昔の観客席の位置にずっと残っているのだろうか。今それ を知りたく思っている。


   ユシェット座
 パリ第五区にあった六つの劇場のうち、いまでも活動を続け ているのは、このユシェット座だけである。ここでは、二十一 年間もの間、イオネスコの最初の二つの芝居、『禿の女歌手』 と『授業』がずっと上演され続けられている。
 とは言っても、ユシェット座の存続について、今までにもめ ごとが全くなかったわけではない。
 例えば、四年前、座長が亡くなった時、彼の相続者は芝居小 屋を売り払って、ここらのこまごまとした界隈にいくらでもあ るような多少エキゾチックなレストランにしてしまおうとした のだった。しかし、イオネスコが文化省に抗議の手紙を書き、 我々も、テレビや新聞を通じてもうすでに古典作品となったよ うなふたつの芝居を上演する劇場が、観光的レストランなどを 作るために取毀されるなどということは、とうてい容認しがた いことだと主張し、劇場の閉鎖に激しく反対したため、文化省 もやっと芝居小屋保護という立場をとるに到った。その結果、 今のところ「原則的には」当分の間、演劇活動を続けられるこ とになっている。私が「原則的には」と言うのは、「実際上は」 解決せねばならぬ経営上の問題があるからである。劇場の建物 の老朽化が進み、何らかの対策を立てねばならぬのにもかかわ らず、ュシェット座の座席数は九〇しかなく、利益がほとんど ないので資金的にそれが不可能な状態なのである。
 しかし、ここで出演している役者達は、皆、自分がここの座 長としてフランス文学のたいへんに重要な部分を護り続けてい るのだという自覚をもって、毎夜毎夜、演技しにやってくる。 なぜなら、現在ュシェット座は、ここに出演している役者達の 連合体として組織され、俳優連自身の管連のもとに置かれてい るからである。普通の意味での座長は、ここにはもういない。  パリ第五区最後の芝居小屋として、このュシ=ット座には、 演劇に興味がある学生達やフランス語を勉強する学生達が、世 界中から芝居を見に集って来る。そして彼らは、自分の名前や 観劇の感想や、やってきた日付などを落書として残していくの で、この頃では、壁など何度塗り替えても間に合わないほどで ある。ユシェット座も、凱旋門やエッフェル塔なみの名所にな りつつある。

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